RIZIN試合での乱闘に物申す!エンセンさんとの対談は現実するのか!?【魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!】格闘家としての経歴や、嫁さん、SNSなど深堀してみました!

格闘家で人気の魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さん。  

 

今回は、魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんの最新動画の紹介とともに、魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんについて徹底的に調べてみました!

 

魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!のプロフィール

 

まず最初に魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんのプロフィールを紹介します。

 

格闘家の魔裟斗さんと武蔵さん、二人からなるチャンネルです。

 

 

名前:魔裟斗(まさと)

 

本名:小林 雅人

 

旧リングネーム:藤 山海山(ふじ さんかいざん)

 

生年月日:1979年3月10日 42歳(2021年4月現在)

 

出身:千葉県柏市

 

身長:174㎝ 体重70㎏

 

階級:ミドル級

 

日本の元キックボクサー、タレント、俳優、スポーツ解説者。K-1 WORLD MAX 2003・2008世界王者。

 

妻は女優・タレントの矢沢心さん。

 

 

株式会社MASA・CHAEL所属。

 

所属ジムはシルバーウルフ。

 

日本人初のK-1 WORLD MAX世界王者。

 

雅人さんの私生活

  • 2007年2月11日、女優・タレントの矢沢心と6年間の交際、5年間の同棲を経て入籍。翌2008年4月20日、都内のホテルで結婚披露宴を行った
  • 2012年6月22日、4年間の不妊治療を経て、第1子女児が誕生
  • 2014年9月27日、第2子女児が誕生
  • 2019年1月8日、第3子男児の誕生を報告    引用:wiki

 

 

 

 

名前:武蔵(むさし)

 

旧リングネーム:ムサシ

 

生年月日:1972年10月17日 48歳(2021年4月現在)

 

出身:大阪府堺市南区

 

血液型:A型

 

大学:近畿大学短期大学部商経科

 

階級:ヘビー級

 

 

日本の元空手家、元キックボクサーである。

 

個人事務所パウンド・フォー・パウンドに所属し、タレント、俳優としても活動する。

 

蜷川氏の子孫で、蜷川新の曾孫。

 

リングネームの由来は右も左も両方撃てる二刀流であることから。リングネームの命名は佐竹雅昭。

 

弟はキックボクサーのTOMO。

 

トレーナーは元WBA世界スーパーミドル級チャンピオンのフランク・ライルズ。

 

 

魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!のYouTubeチャンネル

 

K’FESTAの大会の様子を語り、堀口さんが朝倉さんに勝利した試合のカーフキックについても解説しています。

 

 

堀口さんについての記事はこちらです!

 

【堀口恭司】おるたなチャンネルや朝倉海との関係性や年収など深堀してみました!

 

朝倉海さんについての記事はこちらです!

 

兄弟揃って最強!!【朝倉海】がシバターとケンカ!?路上でイキってたヤンキーを撃退!?年収や戦歴など深堀してみました!!

 

 

 

武尊VSレオナペタス戦について語る動画です。

 

武蔵さんが曙さんとの対戦でブチ切れた面白エピソードも語っています。武蔵さんの人柄の良さが垣間見えるなんだかほっこりしてしまう内容の動画です。

 

 

武尊さんについての記事はコチラです!

 

格闘家で有名の武尊さん!那須川天心と試合!?木村ミノルとマジ喧嘩!?年収など含め彼を徹底解説していきます!

 

 

 

武尊VSレオナ戦との感想のあと、那須川天心の攻略法を二人が実演しながら解説しています。

 

 

那須川天心さんについての記事はコチラです!

 

【那須川天心】YouTuberとしても活躍し出した格闘家の来歴や年収を深堀してみました!!

 

 



魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!の来歴

 

ー魔裟斗さんの来歴ー

 

千葉県柏市にて4700グラムで誕生した。小学校2年生の時に両親の都合で千葉県柏市から沖縄県へ引っ越す。小学校6年生の時に再び両親の都合により埼玉県朝霞市に転居。小学6年次・中学校・高校時代を朝霞市で過ごす。埼玉栄高校に進学するも中退。高校中退後は10種類余りの職を転々とした。

1994年、15歳でボクシングの名門ヨネクラボクシングジムに入門。しかしプロテストをドタキャンし、そのままジムを去る。その後、キックボクシングに転向、17歳で藤ジムに入門した。

1997年3月23日、全日本キックボクシング連盟でのプロデビュー戦で竹原太と対戦し、1RKO勝ち。

1997年5月30日、小比類巻貴之と対戦し、膝蹴りの連打により3RKO負け。初黒星を喫した。共にデビュー2戦目同士で3回戦の前座扱いであったが、メイン、セミの試合のキャンセルが相次ぎ、繰上げでその日の興行のメインイベントになった。この試合を、『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)は急遽見開き2ページ、オールカラーで掲載した。魔裟斗は敗北したが、魔裟斗の入場シーンを1ページ丸々の一枚写真を使用するという異例の扱いであった。

2000年1月21日、全日本キックボクシング連盟主催『LEGEND-I』のダブルメインイベント(セミファイナル)でモハメッド・オワリ(ベルギー)と対戦予定であったが、魔裟斗が試合出場を拒否し「試合放棄」とされた。3月14日付けで藤ジムと全日本キックボクシング連盟に退会届を提出し、同連盟ウェルター級王座も返上、「シルバーウルフ」所属となった。その後しばらくは、総合格闘技団体・パンクラスの東京道場や新日本キックボクシング協会の伊原道場を間借りして練習を行う。魔裟斗は「自分のジムもなくて、いつ試合ができるかも分からないこの時期が一番つらかった」と語っている。

2000年7月26日、初の自主興行『Wolf Revolution』を開催し、メインイベントでクレイトン・コリヤーに1RKO勝ち。

2000年11月1日、K-1 WORLD MAXの前身に当たる興行『K-1 J・MAX』で、ムラッド・サリ(フランス)とISKAオリエンタル世界ウェルター級タイトルマッチを行い、2Rに左フックでKO勝ち。王座奪取成功。試合後、リング上でマイクを握った魔裟斗は「これからは僕の時代です」と宣言した。この試合は大きなターニングポイントになったと後に語っている。

2000年12月5日、タイで行われた『タイ国王生誕記念大会』でスリヤー・ソー・プルンチットと対戦し、判定負け。小比類巻貴之戦以来、3年6か月ぶりの敗戦となった。

2001年1月12日、Wolf Revolution 〜Second Wave〜にて1年前に対戦予定だったモハメッド・オワリを一方的に打ちのめして3RTKO勝ち。試合後、「俺が逃げたわけじゃないってことが証明できた」とコメントした。

2001年3月30日、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟主催『ODYSSEY-1』で伊藤隆の引退試合(エキシビションマッチ)の相手を務めた。

2002年2月11日、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントに出場。1回戦、準決勝共にKO勝ちで決勝に進出し、小比類巻貴之と対戦。的確にパンチをヒットさせ判定勝ち。

2002年5月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界一決定戦の準決勝でアルバート・クラウス(オランダ)と対戦。2Rにクラウスの右ストレートでダウンを奪われ判定負け。試合後の控室に向かう途中、号泣した。

2002年10月11日、K-1 WORLD MAX 2002 世界王者対抗戦でアルバート・クラウスと対戦。雪辱を誓ったものの、互いに決め手を欠き引き分け。

2003年3月1日、K-1 WORLD MAX 2003 日本代表決定トーナメントに出場。3試合とも判定勝ちながら危なげない試合運びでトーナメント2連覇。

2003年7月5日、K-1 WORLD MAX 2003 世界一決定トーナメントの1回戦でマイク・ザンビディス(ギリシャ)と対戦。1R、わずかな隙を見せたザンビディスに跳び膝蹴りを見舞いダウンを奪うも、その後ザンビディスの反撃によりポイントを奪い返され、2-1の判定で辛勝。決勝戦で前年度王者アルバート・クラウスを2R、左フックでKOし、優勝を果たした。

2003年12月15日、『WOLF REVOLUTION meets LUZ』で宇野薫とエキシビションマッチを行った。1Rはキックボクシングルールであったが、2Rは総合格闘技ルールとなり、オープンフィンガーグローブでの戦いを披露した

2004年7月7日、K-1 WORLD MAX 2004 世界一決定トーナメントでジャダンバ・ナラントンガラグ(モンゴル)、アルバート・クラウスをそれぞれ判定で下し、決勝戦でブアカーオ・ポー.プラムック(タイ)と対戦。連戦によるダメージが蓄積し、なおかつ片目が塞がった状態での戦いを強いられた。ブアカーオの攻撃に成す術もなく3Rにはフラフラの状態で戦っていたのにもかかわらず、3R終了時点判定1-0で延長R突入となり、延長Rで判定負け、準優勝となった。この判定は問題となり、大会終了後の7月9日に「3R終了時点の判定はミスジャッジングであり、不適格かつ不可解」であったとして、角田信朗を始めとした審判員の処分を発表した。また、3R終了時点でブアカーオが3-0の判定勝ちであったことを正式に認証することになったが、公式記録上の変更は行わなかった

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で山本”KID”徳郁とK-1ルールで対戦。1R、山本にダウンを奪われた直後、ローキックが山本の金的を直撃し試合が中断する。山本自身「手足が震えた」というほどの致命的なダメージであった。そして5分の休憩の後、精彩を欠いた山本から2Rにダウンを奪い返し、判定勝ちを収めた。

2005年7月20日、K-1 WORLD MAX 2005 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝でマイク・ザンビディスと対戦。ダウンを奪い判定勝ちしたが、自身の蹴りで左足腓骨を骨折し準決勝を棄権。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!で復帰。元プロボクサー大東旭と対戦し、2RTKO勝ち。

2006年6月30日、K-1 WORLD MAX 2006 世界一決定トーナメント決勝戦の準々決勝で小比類巻貴之と通算3度目の対戦。3Rにボディブローを効かせ、直後の左ストレートでダウンを奪い判定勝ち。準決勝でアンディ・サワー(オランダ)に3R終了間際にダウンを喫し判定で敗れ3位に終わる。

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!において対戦予定だった元WBA世界スーパーフェザー級王者・チェ・ヨンス(韓国)が練習中に負傷したことにより、試合10日前に対戦相手がボクシング元日本ミドル級王者・鈴木悟に変更。結果は2RKO勝ち。

2007年10月3日、K-1 WORLD MAX 2007 世界一決定トーナメント決勝戦では、自ら指名した前年度王者ブアカーオ・ポー.プラムックと準々決勝で対戦。1Rに右ストレートでダウンを奪い、判定勝ち。準決勝ではアルトゥール・キシェンコ(ウクライナ)に2Rにカウンターの左フックでKO勝ち。決勝ではアンディ・サワーと対戦したが、2試合を戦ったダメージの蓄積に加え、サワーの猛攻で足が限界に達し、2R終了時に立ち上がることが出来ず、セコンドがタオルを投入しTKO負け。準優勝に終わった。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で前年に対戦予定であったチェ・ヨンスと改めて対戦。3年続けて元プロボクサーとの対戦となった。1Rにダッキングに合わせたハイキックでダウンを奪うと、その後もパンチやローキックで攻め立てて3Rタオル投入によるTKO勝ち。

2008年10月1日、K-1 WORLD MAX 2008 FINALのトーナメント準決勝で、かねてから魔裟斗との対戦を熱望していた佐藤嘉洋と対戦。3Rに左フックでダウンを奪われるも、当時は「優勢選手に必ず10ポイントを付ける」というルールがあったにも関わらず、優勢と判断された佐藤嘉洋に9ポイントしか付かなかった為、判定勝ち。続くアルトゥール・キシェンコとの決勝戦でも同様の判定が起こり、延長Rに判定勝ち。2度目のK-1 WORLD MAX世界王者となった。優勝直後にはリング上で「15年間やってきて、1つのことを頑張るといいことがあるって思ったね。皆も色々とあるだろうけど、途中で投げずに続ければ、結果はどうであれ、充実できると思う。はっきり言って俺は99%の努力と1%の才能でここまで来たけど、“継続は力なり”じゃないけど、ずっと続けたことが、このチャンピオンベルトにつながったと思います」とコメントした。

2009年3月22日、東京マラソン2009に出場し、3時間51分41秒で完走した

2009年4月1日、記者会見を開き、2009年末を以って引退する旨を表明。「大晦日のDynamite!!で今年のトーナメント優勝者と戦いたい」「アンディ・サワーとは2度戦ってまだ勝っていないから、是非ともサワーに優勝してもらって挑戦したい。最後に俺がサワーに勝って終わるのは俺の運命」と発言した

2009年4月21日、引退発表後の「初戦」として出場したK-1 WORLD MAX 2009 FINAL16で、かねてから魔裟斗が目を掛けていたHIROYAとエキシビションマッチを行った

2009年7月13日、K-1 WORLD MAXでのラストマッチとなったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8にて、ファン投票で推薦された総合格闘家・川尻達也と対戦。試合決定直後から、川尻の打撃トレーナーも加わり激しい舌戦を繰り広げた。1Rに右ストレートでダウンを奪い、2Rにパンチのラッシュで追い込んだところで川尻陣営からタオルが投入されTKO勝ちを収めた。

2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 FINALにてジョルジオ・ペトロシアンが圧倒的な強さで優勝。その直後に魔裟斗はリング上でペトロシアンに対して「大晦日空いてるかな?」「大晦日、日本で待ってるよ。」と挑戦を表明した。しかし、その翌日、ペトロシアンが準決勝山本優弥戦の時点で既に右手の指を骨折していたことが発覚したため、対戦の正式決定には至らなかった

2009年11月7日、「SILVERWOLF presents FINAL REVOLUTION 〜大宮司進 FINAL〜」で、所属ジムの同僚である大宮司進とエキシビションマッチ(K-1ルール・3分2R)で対戦した

2009年11月12日、世界王者ジョルジオ・ペトロシアンの右手の指の骨折が完治しないため、準優勝者であり過去2戦2敗のアンディ・サワーとの大晦日での引退試合が決定した。これについて、魔裟斗は「サワーとの試合はやり残し。過去2度の対戦は、既にダメージが溜まっているトーナメントの準決勝と決勝だったけど、お互いが無傷で公平なワンマッチなら俺の方が強い」と語っていた

2009年12月31日、さいたまスーパーアリーナにて行われたDynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜でアンディ・サワーとK-1特別ルール(3分5R延長1R、サワーが希望するシュートボクシングのロングスパッツ着用可)で自身の引退試合を行った。4Rにカウンターの右フックでダウンを奪うもサワーも盛り返し、最終5Rまでもつれ込んだが3-0の判定勝ちを収め、現役を引退した。

その後

2012年5月16日、K-1のエグゼクティブプロデューサーに就任したが、同年12月31日、「主催者側と運営方針などについて考え方の違い」を理由に辞任した

2014年11月3日にスタートした『K-1 WORLD GP JAPAN』でゲスト解説を務め、現在も継続出演している。

現役復帰

2015年12月31日、東日本大震災チャリティーイベント『NIPPONFIGHT』にて現役復帰試合を行った。相手は2004年の大晦日にK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦した山本”KID”徳郁で、結果は判定勝ち。

2016年12月31日、『NIPPONFIGHT』にて一年振りに登場。元PRIDEライト級王者五味隆典とK-1特別ルール(3分5R KOのみの決着。判定決着が無いので、5R終了時点で引き分け)で対戦。5R終了まで行われ、ドローとなった。   引用:wiki

 

魔裟斗さんといえばKIDさんとの伝説の試合が印象深いですね。

 

 

 

ー武蔵さんの来歴ー

 

1995年9月3日、K-1 REVENGE IIでパトリック・スミスとデビュー戦を行い、2RKO勝ち。当時は83kgであった。

1996年5月6日、K-1 GRAND PRIX ’96に唯一の日本人として出場し、準々決勝でサム・グレコに勝利するも、準決勝でマイク・ベルナルドに敗れた。

1996年12月8日、K-1 HERCULES ’96でアンディ・フグと対戦し、判定負け。

1997年3月16日、K-1 KINGS ’97でブランコ・シカティックと対戦し、TKO負け。

1998年5月24日、K-1 BRAVES ’98で佐竹雅昭と対戦し、5R引き分け。

1998年7月18日、K-1 DREAM ’98でアーネスト・ホーストと対戦し、TKO負け。

1999年2月28日、敵地イギリスでカークウッド・ウォーカーの保持するWAKO PRO世界ムエタイヘビー級王座に挑戦するも、1-2で判定負け。武蔵はダウンこそ奪えなかったものの攻撃は積極的であり、判定負けという結果に場内からはブーイングも起きた。

1999年6月20日、K-1 BRAVES ’99でWAKO PRO世界ムエタイヘビー級王者カークウッド・ウォーカーに3度目の挑戦(過去2度敗退)で、5R左ミドルキックでKO勝ちし王座を獲得。

1999年8月22日、JAPAN GPに出場。準々決勝で長井満也、準決勝で天田ヒロミ、決勝でノブ・ハヤシに勝利し優勝を果たす。

1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX ’99 開幕戦のGP1回戦で佐竹雅昭と再戦。1Rにダウンを奪われたものの5R判定勝ち。この判定に佐竹は激怒しK-1を去ることになった。試合後、「もし再戦ということであれば、自分はやります。自分は自分の闘いをやっただけ。その結果ジャッジがああいう結果を出して、僕はそれに従っただけです。でも、自分の闘いとして納得いくものではなかった、という不満は残ってます。」とコメントした。12月5日、K-1 GRAND PRIX ’99 決勝戦のGP準々決勝では、ミルコ・”クロ・コップ”・フィリポビッチと対戦し、2RKO負け

2000年1月25日、K-1 RISING 2000 〜長崎初上陸〜でピーター・アーツと対戦。1Rから左ミドルをヒットさせるなど健闘するが、スタミナの切れた延長RでKO負けを喫した。

2000年3月19日、K-1 BURNING 2000 〜燃えよ日本魂〜でアンディ・フグと対戦し、5R判定負け。

2000年7月7日、K-1 JAPAN GP 2000に出場。決勝で天田ヒロミに勝利し、前年に続いてJAPAN GP2連覇を達成し、K-1を去った佐竹に代わり改めて日本人最強を証明した。

2000年12月10日、K-1 WORLD GP 2000 決勝戦のGP1回戦でレイ・セフォーに1RKO負け。対戦予定だったマイク・ベルナルドが直前で欠場となり、急遽セフォーとの対戦が決まった。

2001年4月15日、K-1 BURNING 2001 〜火の国熊本初上陸〜でアーネスト・ホーストと対戦し、5R判定負け。1998年の試合では何もできずにKOされた相手とほぼ互角に渡り合ったことで、武蔵の成長が見られた。

2001年6月24日、エベンゼール・フォンテス・ブラガと対戦。前半は武蔵が優勢に試合を進めたが、ブラガがクリンチ状態から意図的に足を掛けて武蔵をマットに倒し、後頭部を強打。武蔵はなんとか試合を続行するものの、それ以降は記憶のない状態で闘っていたと試合後に語っており、結局判定1-0のドローに終わる。このブラガの行為が「注意1」であったことに対し、武蔵は「あれで注意1じゃ反則したもん勝ちですね」と皮肉った。

2001年8月19日、2連覇中のJAPAN GPに出場。準々決勝で大石亨、準決勝で中迫剛にそれぞれ判定勝ちで決勝に進出するも、連続KOで勝ち上がってきたニコラス・ペタスに延長戦でダウンを奪われ判定負け。

2002年1月11日、一撃旗揚げ戦のメインイベントで野地竜太と対戦し、判定勝ちを収めた。

2002年4月21日、K-1 BURNING 2002でK-1デビュー戦のセミー・シュルトと対戦。パンチを何度もヒットさせ判定にもつれ込むが、1-2の微妙な判定で敗れる。

2002年9月22日、JAPAN GPに出場。1回戦で天田ヒロミ、準決勝で富平辰文、決勝で中迫剛に勝利し、3度目の優勝を達成。2年ぶりにWORLD GP 決勝大会へ進出する。

2002年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦のGP準々決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。アグレッシブに打ち合うが、攻撃力の差で徐々に押され2RKO負け。

2003年6月29日、K-1 BEAST II 2003でモンターニャ・シウバと対戦。シウバが反則のマウントパンチを連打するという前代未聞の行動を取り、武蔵の反則勝ちとなった。武蔵はルールを無視したシウバに対して激しい怒りを見せた。K-1競技統括プロデューサーの角田信朗は、「モンターニャをK-1から追放したい。また出すようなら僕は競技統括を辞めます」と語った。

2003年9月21日、JAPAN GPに出場。1回戦でモンターニャ・シウバ、準決勝で堀啓、決勝で藤本祐介に勝利し、4度目の優勝を達成。

2003年12月6日、K-1 WORLD GP 2003 決勝大会に出場。GP準々決勝でレイ・セフォーに判定勝ち、準決勝ではピーター・アーツに判定勝ちし、決勝でレミー・ボンヤスキーに敗れるも、1994年大会の佐竹雅昭以来、日本人として9年ぶりのK-1 GP準優勝を記録した。

2004年3月27日、K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMAで曙と対戦。押し倒された際に後頭部へのパンチを連打されるという反則攻撃を受けるが、試合を続行し判定勝ち。

2004年5月3日、新日本プロレス所属の柴田勝頼と異種格闘技戦を行い左ハイキックで勝利。この日、記者会見で柴田と乱闘したり、試合で倒れている柴田に攻撃(反則)したりと一度だけプロレスを体験する。

2004年6月6日、K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYAでレイ”マーシレス”マーサーと対戦。1Rにハイキックでダウンを奪い判定勝ち。

2004年9月25日、K-1 WORLD GP 2004 開幕戦のGP1回戦でシリル・アビディを相手にキレのある動きで蹴り技を次々のヒットさせて判定勝ち。

2004年12月4日、K-1 WORLD GP 2004 決勝戦のGP準々決勝でレイ・セフォーと対戦。ハイレベルかつテクニカルな攻防戦となり、僅差の判定で勝利。準決勝ではガオグライ・ゲーンノラシンと対戦。素早い動きに手を焼くものの、徐々にローを効かせて延長判定勝ち。決勝戦では、レミー・ボンヤスキーと対戦し、第1Rにダウンを奪われるが、微妙な判定で延長に突入し、再延長戦の末に判定負け。しかし大会後、武蔵とボンヤスキーの両者に対する贔屓判定に対して、大会主催者のFEGとフジテレビに抗議の電話とメールが殺到した。大会から数日後、K-1公式サイトにて再審議の結果が発表されたが、判定は覆らなかった。

2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!でショーン・オヘアと対戦。2Rに左ハイキックでKO勝ち。

2005年4月30日、ラスベガス大会でリック・ルーファスと対戦。ローキックを効かせ有利に試合を進め、スプリット判定で勝利した。

2005年9月23日、K-1 WORLD GP 2005 開幕戦のGP1回戦でフランソワ・”ザ・ホワイトバッファロー”・ボタに蹴りを当てつつパンチを殺して判定勝ち。

2005年11月19日、K-1 WORLD GP 2005 決勝戦では、GP準々決勝でルスラン・カラエフと対戦し、延長判定勝ち。続く準決勝ではカラエフ戦で受けたダメージがたたり、グラウベ・フェイトーザに後ろに下がった隙をつかれ左跳び膝蹴りでKO負け。約3年ぶりのKO負けとなった。

2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!でボブ・サップと対戦。後頭部への反則パンチを連打されるという反則攻撃を受けるが、試合を続行し判定勝ち。アクシデント後も試合を続けたことに対して「あのままでも勝てたかも知れない。でも、お客さんが喜ばない勝ちなど欲しくない。ハンデはあるが、やることの方が大事だと思っていた」と語った。

2006年4月29日、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGASで前年WORLD GP優勝のセミー・シュルトに判定負け。

2006年7月30日、K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 in SAPPORO 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜で前年WORLD GP準優勝のグラウベ・フェイトーザとリベンジマッチを行う。試合終了間際にダウンを奪われ判定負け。

2006年9月30日、K-1 WORLD GP 2006 開幕戦で、GP初出場の新鋭ハリッド”ディ・ファウスト”に2-1の判定負け。この試合で武蔵はパンチの連打で圧倒される場面もあったが、ジャッジの一人は武蔵を支持した。この件についてK-1プロデューサーの谷川貞治も「武蔵を支持したジャッジはおかしいですね」とコメントしていた

2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 決勝戦のGPリザーブマッチでピーター・アーツに1RKO負け。ハリッドに敗北したショックで出場するかどうか迷っていたこともあり、オファーを断らない武蔵にしては珍しく試合の受諾に時間がかかった

2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!でランディ・キムと対戦しKO勝ち。大晦日にようやく2006年の初勝利を挙げた。

2007年3月4日、初代K-1ヘビー級王座の挑戦権をかけて藤本祐介と対戦。第3R終了時の判定でドローとなり、延長戦となるが、藤本の左ハイキックを受けKO負け。K-1で初めて日本人相手に敗北。

2007年8月5日、K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGで開催されたアジアGPに出場。1回戦でパク・ヨンスのローキックが開始から一分も経たない内に三度も股間に当たり深刻なダメージを負う。特に三回目に関しては、金的からの中断が終わり試合が再開した直後であり、ヨンスがインターバル中にまったく反省したそぶりを見せなかったこともあり、会場からもブーイングが起こった。ドクターストップがかかるほど深刻な状態だったが、精神力の強さを見せて2RKO勝ち。この試合の決着場面で武蔵のパンチでヨンスがダウンした時に武蔵はニュートラルコーナーに戻ろうとしたが、ヨンスが失神して試合が終了した後、急に向き直って倒れているヨンスにさらに追い討ちを掛けようとするという反則を犯した。

続く準決勝では、準々決勝で3度もローブローを受けてダメージの残る股間に王強の膝蹴りが当たり、セコンドからタオルが投入されて一度は武蔵の負けが宣告される。しかし、その直後に「相手の反則による休憩中のタオルは無効」と裁定され続行。この休憩中に判定に不満を抱く王強がリングを出たため試合放棄と見なされ武蔵の勝利となったが、ダメージは大きくドクターストップがかかり決勝には王強が進出した。

2007年9月29日のK-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16へ主催者推薦枠での出場に最後の望みを寄せていたものの、澤屋敷純一が同枠で出場することになり、6年連続での本大会はならず。

2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でベルナール・アッカと対戦。1R開始直後にアッカのラッシュで防戦一方となる場面もあったが、冷静に見切りスタミナ切れを誘い、3Rカウンターの左フックでKO勝ち。

2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAで澤屋敷純一と対戦し、全盛期を思わせるキレのある動きを見せ、3ダウンを奪いKO勝ち。しかし、ダウンを奪ったハイキックを放った際に古傷である左膝を痛めてしまった。

2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで開催されたJAPAN GPに出場。1回戦で前田慶次郎と対戦し、判定負け。試合後、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「武蔵選手は試合に出られる状態じゃなかったんです。左膝に水が溜まっていました。ですが、福岡を盛り上げないといけないですし、色々なことを考えて、澤屋敷純一選手が出られない中で出てもらったんです。主催者としては、可哀想なことをしてしまいました。今回は感謝していますよ。」と話した。

2008年9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16のGP1回戦でエヴェルトン・テイシェイラと対戦し、3R判定負け。

2008年12月31日、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜」でK-1ルール初挑戦のゲガール・ムサシと対戦。「ムサシ」対決として試合前にゲガールから改名マッチを突きつけられた。試合は、序盤キックで応戦するものの、ムサシのパンチ主体の攻撃に圧倒され1Rに3度のダウンを喫しKO負け。試合後、「試合で固くなってしまって情けない。次はK-1のリングでムサシとやりたいです。Dynamite!!はリングに上がったらアウェーな感じがしました。ずっとこの名前でやってきて変える気もないし、どんな名前に変えればいいかわからない。」とコメントした。これに対してゲガール・ムサシは「僕は日本人でもなく、K-1ファイターでもないのに、勇気を出してアウェーである日本のリングでK-1ルールで武蔵と戦ったんだから、屈辱を晴らしたいなら僕が住んでいるオランダのリングで総合格闘技ルールで再戦するのが筋じゃないの?」とコメントしている

2009年8月26日、年内での引退を発表。K-1で14年間戦ってきた花道として、ファン投票での開幕戦出場をファンと関係者に直訴した。この武蔵の願いに対し、EPの谷川貞治は「武蔵選手はほとんど主張しないタイプで、大会を盛り上げるために怪我をしているのに試合に出てもらったということがあります。」「いつも勝手な事言ってる選手じゃないんで。初めてかもしれないですね、自分で出たいと言ったのは。わりと何でもこっちの言うことを聞いてくれる選手だったので。誰かとやりたいとか言ったことがないですね。逆にセミー・シュルトとやれと言っても断ったことはないですね。武蔵vsムサシも嫌だったと思いますし。」「そういう意味で感謝している部分もあるし、(開幕戦出場の直訴が)虫のいい話だとは思わないですね。ただし特別扱いは出来ません」と語った。その後、ファン投票枠でのGP出場が決定した。

2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16のGP1回戦で引退を賭けジェロム・レ・バンナと対戦。戦前「最後まで武蔵流を貫く」と発言するも、今までのファイトスタイルとは違いパンチに重点を置いた打ち合うファイトスタイルを展開した。終盤にダウンを奪われ判定負けを喫するも韓国の会場からは大きな歓声と拍手が起こった。

2010年4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAにて引退セレモニーが行われ、藤原紀香やジェロム・レ・バンナなどから花束を贈られたほか、師匠の石井和義からは黄金のグローブを贈られた

2010年10月23日、Zepp Tokyoで開催された自主興行「MUSASHI ROCK FESTIVAL」の中で、弟のTOMOを相手に再度引退試合(3分2Rのエキシビションマッチ)を行った。2009年の引退試合が韓国開催だったため「日本のファンに最後の姿を見せたい」との理由でワンマッチのみ復帰することとなった

引退後は、2009年8月に弟のTOMOと共に設立した個人事務所「株式会社パウンドフォーパウンド」で、同社の専務兼タレントとして活動している。    引用:wiki

 

魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!のブログ

 

下記魔裟斗さんのオフィシャルブログです。

 

家庭での幸せそうな写真が日々アップされています。

 

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魔裟斗さんのインスタでは嫁さんとの幸せそうな写真や、トレーニングなどの日々の写真がアップされていました。

 

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矢沢心さんのインスタでは番組に出演した時の舞台裏や、日々の写真が上げられていました。

 

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武蔵さんのインスタでは釣りに行ったときの写真や、トレーニング風景などの写真がアップされていました。

 

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魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!の人気動画

 

魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんの人気の動画はこちらとなっています。

 

 

なんと再生数は92万回!

 

スダリオ剛VS宮本和志の動画を観て二人がコメントしています。

 

試合が終わった後に殴りにいっている選手やセコンド同士の喧嘩について「格闘家で素行が悪くて何が悪い」は違うと苦言を呈しています。

 

 

それに対し、エンセンさんが語る動画です。

 

 

 

エンセンさんは3人で話し合いたい、あの時私はどうすれば良かったのか魔裟斗さんと武蔵さんへ向けた動画を出しています。

 

 

魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!の最新動画

 

そんな魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんの最新動画はこちら!

 

 

雅人さんのリングネームが何故、魔裟斗なのかなど詳しく語ってくれています。

 

まとめ

今回は魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんについて調べてみました。 いかがでしたか?

 

 

格闘家で人気の魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんですが、今後も要チェックなYouTuberだと思います!

 

 

これからも魔裟斗&武蔵チャンネル ムサマサ!さんに注目したいと思います!